あさが来た|広岡浅子の死後、その後の広岡家や加島屋の悲劇!没落?

 

朝ドラ『あさが来た』では、物語もクライマックスに向かっています。

 

『あさが来た』はヒロインの白岡あさの一代記ですが、

どうやらあさの最期などは描かれないようです。

 

最愛の夫で最大の理解者だった新次郎が亡くなるのがクライマックスで、

その後のあさの晩年の女子教育への尽力が簡単に描かれるといった流れの

ようです。

 

ご存知の通り、あさのモデルは「女傑」と言われた女実業家の広岡浅子

 

彼女は明治維新で大打撃を受けた名門両替商の加島屋の経営を立て直し、

加島銀行や大同生命といった大事業を起こしたことでも知られています。

 

このあたりはドラマでもあさが女だてらに炭鉱に乗り込んで行ったり、

銀行設立に奔走する姿も描かれましたね。

 

ところで浅子が亡くなった後の広岡家が経営する加島屋

どうなったのでしょうか?

 

ドラマの加野屋のモデルとなっているだけに、気になりますよね?

ところが悲惨な運命を辿ることになります。




 

 

 

コンテンツ

「広岡浅子の死後、その後の広岡家や加島屋の悲劇!没落?」

 

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まずは広岡浅子が亡くなったのは大正8年(1919年)で、当時の加島屋は

復興後の全盛期という様相でした。

 

この時期に広岡家の加島屋が関与する大きな事業は、

加島銀行大同生命でした。

 

そしてどちらも大正期に大きな伸びを見せて発展していきます。

 

当時の経営を指揮していたのは浅子の女婿の広岡恵三(東柳啓介のモデル)

でしたが、恵三は浅子の期待にたがわぬ成果を残します。

 

経営が傾いていた加島屋を様々な手段で立て直した浅子ですが、

その全盛期に逝ったことになり、思い残すことはなかったでしょう。

 

この点は幸いでしたが、その後加島屋に大きなピンチが訪れます。

 

経営危機に陥る加島屋!!

 

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まず加島屋に降りかかった大きな危機は、昭和4年(1929年)に発生した

昭和恐慌です。

 

昭和恐慌は当時としては未曾有の大恐慌で、戦前の日本経済を危機的な状況に

陥れます。

 

この恐慌で800社以上の会社が倒産し、250万人あまりの失業者が

生まれましたが、加島銀行はこの恐慌の直撃を受けます。

 

加島銀行はそれまで預金高で全国10位の地位を築いていましたが、

取り付けによる多額の預金の流出により、大失速していくことになります。

 

別の記事でも書きましたが、加島銀行の1億7000万円を超えていた預金高は、

昭和5年6月の段階で約206万円まで激減しています。

 

そして大同生命に経営を集中させるという恵三の経営判断もあり、

昭和12年(1937年)には鴻池銀行などに買収されました。

 

しかし加島銀行は破たんの際に大きな負債を生み出しており、

恵三や広岡家は私財をもってこれらを返済していきました。

 

広岡家本家があった天王寺の屋敷、勉強会がおこなわれた御殿場

二の岡の別荘、浅子が亡くなった東京・麻布の別邸など、

浅子にもゆかりの深かった不動産がその返済のために次々に処分されました。

 

さらには加島銀行の破たん前にも、広岡家が代々収集してきた

数百点の茶道具も競売にかけられています。

 

茶の湯が趣味だった広岡信五郎(新次郎のモデル)の愛用した茶器なども、

その際に処分されたと言われています。

 

このように昭和恐慌は広岡家や加島屋に計り知れないダメージを与え、

それ以降は加島屋は大同生命の経営に専念せざるを得なくなりました。

 

しかし太平洋戦争終結後に、思わぬ形でさらなる悲劇が広岡家と加島屋を

襲います。

 

それは戦後のGHQの財閥解体です。

 

GHQの矛先は大手生命保険会社にも向けられ、株式会社から相互会社へと

転換していきました。

 

これにより以降は保険契約者が会社を相互に所有することになり、

それまでの大株主だった経営家には経営権だけが渡されることになりました。

 

当時の広岡家は大同生命の株式の大多数を所有していましたが、

そのすべてがパーになってしまったということです。

 

それまでは一大企業の大同生命の創業家でなおかつ所有者だった

広岡家・加島屋は一転して、雇われ社長に過ぎない身分へと

追いやられてしまったのです。

 

そのため社長の座こそ、昭和22年(1947年)に広岡松三郎

(信五郎と小藤の長男)が就きますが、後に広岡家や加島屋は

大同生命の経営から手を引かせられることになります。

 

戦後の財閥解体の際には、三井家や三菱家なども多額の財産を没収

されましたが、大阪の金融財閥として名をはせた広岡家や加島屋も

例外ではありませんでした。

 

これを「没落」というのは少し違和感がありますが、少なくともこの時期に

広岡家や加島屋が歴史の表舞台から消えたのは確かなことです。

 

このように広岡浅子、信五郎、正秋、そして恵三らの加島屋の経営陣の奮闘や功績も

日本の敗戦によって、すべて消え去ることになりました。

 

しかし彼らの流した汗や涙は決して無駄ではありませんでしたし、

ドラマの視聴者の胸にも残るはず。

 

敗戦というもはやどうしようもないことが理由でしたが、

このようにして広岡浅子が万死の思いで暖簾を守った名門両替商

の加島屋は最期を迎えたのでした。

 

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